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アメリカ映画は、父と息子を描くのが好きなのだなあと思う。愛情や確執、その形はさまざまだけれど、いろいろな作品で父と息子の関係が描かれている。 その多くで、父親は息子が乗り越えるべき壁となる。「母性」に比べて、父親の存在が少しばかり希薄な日本映画とはだいぶ違うような気がする。 「リアル・スティール」の舞台は、ほんの少し未来のアメリカ。 チャーリーは、元プロボクサー。もはや生身の人間の格闘技はすっかり時代遅れ。彼も、ロボット・ボクシングのトレーナーとしてうだつの上がらない日々を送っていた。 そんなある日、昔別れた恋人が亡くなり、会ったこともなかった11才のひとり息子、マックスがチャーリーの前に現れる。 にわかダメ親父となったチャーリー。ぎくしゃくとしたふたりの間に、スクラップ置き場で見つけたシャドウボクシング用のロボット「ATOM」が加わったことから…。 ロボットの名前がアトムというところからも分かる通り、日本のアニメからの影響も随所に見られる。今からほんの十年ばかりで、あそこまで人型ロボットの性能が上がるのかとか細かな疑問もあるが…。 そういったことを取り除いてみれば、これは、21世紀版の「チャンプ」であり、「ロッキー」なのである。 お父さん、あなたもいつか誰かのチャンプになれるかもしれない。チャーリーのように、逆に息子に尻をたたかれながらでも…。 2012.1.28 毎年、このシーズンになるとクリスマスを舞台にしたさまざまな映画が公開される。ほのぼのしたものからアクション映画まで、数ある作品のなかでもいまだに最高峰に輝き続けているのが、46年のフランク・キャプラ監督の「素晴らしき哉、人生!」。 主人公のジョージ・ベイリーは、小さな町に生まれ、世界中を旅して建築家になることを夢見る青年。 だが、その夢は彼の父親の死によって消えてしまう。 貧しい人たちのために、利益を考えずに住宅金融業を営んでいた父のあとを継いだジョージ。 幸せな結婚もし、うまくいっていたかに見えていた彼の人生だったが、事業のひとつのつまずきから窮地に追い込まれてしまう。 絶望したジョージは、吹雪のなか橋から身を投げようとするのだが、そこに現れた老人が…。 3月11日以降、地震や津波、それに追い討ちをかける原発の事故で、わたしたちは何十年何百年かかるか分からない負債を背負い込んでしまった。 それでなくても、どんな人の人生にも、大なり小なりつらいときも落ち込むときもある。実際の人生は、映画や物語のようにはいかないかもしれないし、映画なんか見ていられるかい、という時もあるだろう。 でも、ほんのひと時でも自分の人生って何の意味があるのだろう?と心を巡らせる日があったら、ぜひ見て欲しい一本。 楽しいクリスマスを。そして、希望の見える年がやって来ますように。 2011.12.24 山田洋次監督を迎えての前夜祭からはじまった「うえだ城下町映画祭」も、お陰様で無事終わった。山田監督からは、「このような映画祭を、15年続けてくださったということは、日本の映画人にとってどれだけ勇気を与えられるかわかりません」という言葉をいただいたが、地方で映画祭を開催している私たちスタッフにとって苦労が報われるうれしい言葉だった。 今回のテーマのひとつは、「映画のまち上田」。 上田市でロケされた作品を取り上げたり、上田在住の関本郁夫監督や、監督との縁から上田に映画のロケセットを作って若手の映像作家を支援している照明技師の安河内央之さん。安河内さんの照明助手から映画界に関わっていった俳優の田中要次さんと、田中さんも出演している安河内さんのセットで撮られたショートフィルムの作者によるトークショーや、その作品の上映が行われた。 こうした映画制作の動きや、フィルムコミッションやエキストラのサポート組織等によって、ロケ地としての上田は、ますます充実していきそうである。 だが、その一方で、常設の映画館は、シネコンを除いて姿を消しつつある。 シネコンでは、デジタル上映のみというところが主流になっているのが現状で、フィルムしか残されていない作品は、劇場などで特別上映されるか、映画祭のような機会でないと見られなくなる時代がやってくるかもしれない。 映画を作る側も見る側も、ますます環境が変わっていきそうな昨今である。 2011.12.10 宮崎駿監督は、私より10才少し年上。息子の宮崎吾朗監督は私より10才ほど下の世代。「コクリコ坂から」の世界は、オリンピックを目前にした63年が舞台だから、まさに宮崎駿の青春時代に当たるころだ。 みんなからメルと呼ばれている海は、高校2年生。 父を海難事故でなくし、母を助けて下宿屋の切り盛りをして忙しく毎日を送っている。 彼女の日課は、毎朝海の見える庭で船の安全を祈る信号旗をあげること。 メルの通う学校では、カルチェラタンと呼ばれる文化部部室の取り壊しをめぐって、反対派の運動が起ころうとしていた。 そんなある日、メルは、新聞部の3年生で反対運動の先頭に立っている俊と知りあう。 次第に引かれあうメルと俊だったが、ふたりの間には意外な秘密が…。 前作の「ゲド戦記」では、あまり芳しくない評価をされてしまった宮崎吾朗だが、 この青春学園ラブストーリーは、まずまずの出来になっていると言えるだろう。 私くらいの世代にとっては、あの時代の、貧しいけれどみんなが未来に希望があると信じて生きていたころの青春ドラマが、心地よく繰り広げられている。 ただ、それは、一種の懐古趣味と言えなくもない。 もちろん、懐古しているのは、監督ではなく脚本を書いた父の方であろう。 企画・脚本をやるのであれば、なぜ宮崎駿は自分で監督しなかったのだろう?というのは素朴すぎる疑問だろうか。 2011.9.24 「神聖かまってちゃん」というのは、ネットで楽曲を公開し、昨年CDデビューしたロックバンドである。「劇場版 神聖かまってちゃん/ロックンロールは鳴り止まないっ」は、タイトルだけ見ると、彼らのプロモーション映画か何かのようだが、いろいろな登場人物たちの人生模様を描いた群像劇である(バンドのメンバーやマネージャーも、本人として物語に絡んではくるが)。 高校生の美知子は、大学には進まずプロ棋士になる夢を持っていたが、親たちは過剰なまでに反対しているし、「神聖かまってちゃん」ファンのボーイフレンドには将棋のことを理解してもらえないでいた。 シングルマザーのかおりは、夜はダンサー昼はビルの清掃と働きづめだったが、「神聖かまってちゃん」のネット配信に夢中になっている保育園児の涼太のことで、保育園から厳重注意を受けてしまう。 そして、「神聖かまってちゃん」のマネージャー・ツルギは、バンドのメジャーデビューのために理不尽な条件を押し付けられて頭を抱えていたのだった。 「神聖かまってちゃん」のライブまでの1週間。バンドのサウンドとともに、それぞれの立場で追い込まれていた彼らの人生は、何か見えないひとつのものに向かって突き進んでゆく。 監督は、今や若者の痛みを描かせたらぴかいちではないかと思う「サイタマノラッパー」の入江悠。 脚本、演出、編集にもますます磨きがかかって、まさに映画でしか描けない世界を紡ぎあげている。 2011.8.13 スーパーエイトというのは、コダック社が60年代に発売したアマチュア向けの8ミリフィルムの規格のことである。「SUPER8/スーパーエイト」の監督、J・J・エイブラムスもスーパーエイトでアマチュア映画を撮りはじめた少年のひとりだった。 彼を映画に目覚めさせたのがスピルバーグ作品であり、のちにスピルバーグの8ミリ作品の修復を依頼されるところからふたりの関わりははじまってゆく。 そう考えると、この映画全編を通してスピルバーグ作品へのオマージュの色が濃いのも無理のないところだと思う。 一九七九年、スリーマイル島の原発事故が起こった年、鉄工所の事故で母親を失ったジョーは、その深い悲しみを抱えつつ、仲間のチャールズたちと8ミリキャメラで映画を作ることに夢中になっていたのだが、その映画作りに、ジョーがひそかに憧れていたアリスが加わることになった。 そんなある日、深夜の駅で、ロケをしていた彼らの目の前で、貨物列車が大事故を起こしのだった。 そして、その列車から出てきたものは… いかにも、スピルバーグ好みの物語展開だが、この映画の良さは、けっして、スピルバーグの亜流に終っていないところだろう。 ストーリー自体は、それほど深みのあるものではないが、SF映画としてもよく出来ているし、それ以上に少年たちの成長が、心の機微も含めてていねいに描かれ、21世紀版のスタンド・バイ・ミーと言っていい作品に仕上がっている。 2011.7.23 桜の遅い春だった。信州では、まだ桜のつぼみもふくらまぬ3月11日、日本人にとっては、忘れることの出来ない日がまたひとつ加わってしまった。 東日本の震災と津波、そして福島原発の事故である。 震災や津波の被害は、時が経てば復興のめどが立ってくるだろうが、原発の方は、果たしていつになったらその危険から逃れられるのか、今のところ皆目わからない状況が続いている。 さまざまな方面で、自粛という動きが起きたが、映画もその例外ではなかった。 冒頭に津波のシーンがある、イーストウッド監督の「ヒア アフター」や、中国映画の「唐山大地震 想い続けた32年」は、公開が延期されたり中止された。 そして、大型時代劇として期待の高かった「のぼうの城」も、津波を連想させる水攻めのシーンがあるということで、公開が1年近く伸びてしまった。 さすがにここまで来ると、それは何か違うだろう、と思うのは私だけだろうか? 少なくとも、映画は、見る側に作品を選ぶ権利があるのだから…。 4月に入って、上田にはシネコンが出来たけれど、常設の、昔からの「町の映画館」は、その灯を消そうとしている。 そして4月21日、元キャンディーズのスーちゃんこと、女優の田中好子さんが若くして世を去った。 映画での彼女の代表作が原爆による放射線障害を扱った「黒い雨」(89年)であることを考えると、なにか因縁のようなものを感じずにはいられないこの桜の季節だった。 2011.5.14 「新幹線大爆破」(75年)「カサンドラ・クロス」(76年)「暴走機関車」(85年)、そしてそれ以降も、暴走を始めた機関車や止めるに止められない列車を舞台にした映画は何本も作られてきたが、「アンストッパブル」は、裏に隠された陰謀や事件があるわけではなく、実際に起こった事故をベースにして、暴走する列車とそれを止めようとする人間の闘いを描いた、まことにシンプルな物語だ。操車場で、運転手の手抜きとブレーキの操作ミスから、無人の列車が走り始めてしまう。 それは、最新鋭の貨物列車だったが、その全長八百メートルの車体には、大量のディーゼル燃料と毒性の高い化学薬品が積まれていた。 暴走を阻止しようとする鉄道会社の人間たちはさまざまな手段を講じるが、巨大なミサイルと化した列車は止まらない。 ちょうど、その時、同じ線路上を走っていた貨物列車のベテラン運転手フランクと新米車掌のウイルは、その列車を止めるべく追跡を始めたのだった。 リストラ間近の運転手と家族問題を抱えた新米車掌の人間ドラマも折り込まれてはいるのだが、この映画の主人公はまさに暴走する無人列車だと言っていいだろう。 走り出したら止まらない疾走感は最後までだれることなく、まさにアンストッパブルで映画は突き進んでゆく。 監督のトニー・スコットは、リドリー・スコット監督の弟だが、職人芸に徹した手腕は兄貴に負けていない。 2011.2.12 「ロビン・フッド?ああ、息子の頭にリンゴを乗せて…」「それは、ウイリアム・テル!」 ロビン・フッドは、文学や演劇、映画にと数知れず描かれているイギリスの伝説上の英雄だが、モデルが実在したかどうかも定かではない人物なので、その描かれ方も時代設定も作品によりさまざまである。 リドリー・スコット監督による最新作の「ロビン・フッド」(10年)は、リチャード一世の十字軍遠征の帰途から物語がはじまり、王位を引き継いだジョン王による悪政の時代を舞台にして、十字軍遠征に射手として加わっていたロビン・ロングストライドという一介の石工の息子が、いかにして英国を救い、そののち無法者の義賊ロビン・フッドになったのか、を描いている。 この物語は、同時に「ロビンとマリアン」の物語でもあるのだが、ふたりの出会いと運命がストーリーの横糸を織りなしてゆく(ふたりが、いささか年を食っているかなという気がしないでもないが)。 今までの映画やテレビドラマだと、彼らはすでにシャーウッドの森に棲んでいて、緑の服を着て悪代官をこらしめている痛快なアウトローという、どことなく牧歌的なイメージがあったのだが、この映画のロビン・フッドたちは、むくつけき戦士であり、男臭さと戦闘場面の迫力は満点。 さすがに、「グラディエーター」(00年)でコンビを組んだリドリー・スコットとラッセル・クロウの映画ではある。 2011.1.22 JT跡地の大型スーパーも、ようやくこの春開店するようで、そこにシネコンが併設される予定になっている。シネコンが出来ることによって、上田の映画事情(観る側にとっての)はどう変わっていくのか。 地方ではあまり見る機会のない、単館系のちょっと地味な作品も見られるようになるのか、それとも観客動員の見込めるような作品ばかりが並ぶのか…。 先日、長野に行く用事があったので、ついでにロキシーで「武士の家計簿」(10年)を見てきた。 代々加賀藩の御算用者(会計処理)を務めるそろばん侍の猪山直之とその家族をめぐる物語だ。 江戸末期の武士の暮らしぶりがよく分かる物語。 ただ、直之の周りの世界では明治維新が起こったり、息子も長州征伐に出かけてそこから運命が変わったりするのだが、スクリーンの上に特別劇的な出来事が描写される映画ではない。 その淡々とした描き方を面白いと取るか、退屈と取るかは見る人によって別れるところだろうが、久々に、森田監督らしい作品という感じである。 この映画を見たロキシーという映画館は、見に行くとその都度千円で見られる優待券をくれる。 つまり、実質的にず〜っと千円で映画が見られるということになる。 さて、わざわざ遠出しなくても、いろいろな作品が上田で見られるようになれば、映画ファンとしての家計簿はずいぶんと助かるわけだが…今のところ楽しみでもあり不安でもありといったところである。 2011.1. 今年を振り返って、印象に残った役者の話題というと…。年の瀬に来て、何かとマスコミを騒がせた(マスコミの方が騒いだ、ともいえるけれど)市川海老蔵の事件があったが、もっと取り上げるべきニュースがいくらでもあるだろう、という話なので放っておいて…。 同じ歌舞伎界の親の元に生まれて、醜聞ではなく、演技者としての名を確実に上げ続けているふたりがいる。 ともに、つい先ごろまでNHKの「龍馬伝」に出ていた香川照之と寺島しのぶである。 テレビでも映画でも、何だか軒並み顔を出しているように思える香川照之は、「劒岳 点の記」で本年度の日本アカデミー賞最優秀助演男優賞を受賞し、寺島しのぶは、「キャタピラー」によって、田中絹代以来35年ぶりとなるベルリン国際映画祭の最優秀女優賞を得ている。 若松孝二監督の「キャタピラー」は、戦争によって四肢を失い「軍神」となった夫とその妻の苦悩を描いた、いかにも若松監督らしい反戦映画ではあるが、もともとの想を江戸川乱歩の「芋虫」から得ているところから、もし寺島しのぶの体当たりの熱演がなかったら、監督の考えは別にして、きわもの映画になっていたかもしれない作品だと思う。 過酷なスケジュールで、軍神の妻を演じきった寺島しのぶや、最後の最後で、福島龍馬を食ってしまった岩崎弥太郎役の香川照之のなかにこそ、本物の役者の魂を見た年だった気がする。 2010.12.25 二〇一〇年も、まもなく終わり。映画界としては、黒澤明生誕百周年ということだったのだが、東京や大阪で上映会があったという以外あまり盛り上がりもなく過ぎた気がする。 政治的にも経済的にも浮揚感のないままに年の瀬が来てしまった。 では、まったくいい話がなかったかと、振り返ってみると、ひとつ明るいニュースがあった。 「天かける船」の物語だ。 といっても30数年も前の、宇宙空間を舞台にしたアニメが大金を投じて実写化されたという、そちらの話ではない。 「はやぶさ」。そう、小さな機体を駆ってはるばる20億キロの孤独な旅をして、幾つもの試練を乗り越え地球に帰還を果たし、あまつさえ、人類史上はじめて小惑星の物質を持ち帰るという偉業を成し遂げた小惑星探査機のお話だ。 「HAYABUSA BACK TO THE ARTH」 過日、上田市マルチメディア情報センターで上映会があって、満席の中かろうじて座ってみることが出来た。 全編CGで、しかも登場するのは、はやぶさと宇宙空間と小惑星だけと言ってもいい映画だ。 だが、これが泣けるのだ。ナレーションは、いささか情感過多で大げさだが、それがなくても本当に感動できるストーリーになっている。 機会があったら、是非ご覧になっていただきたい作品だ。 事実は小説よりも奇なりという言葉があるが、この壮大な物語に負けないだけの映画を、来年は見てみたいものだ。 2010.12.18 若い人たちの映画離れが進んでいるらしい。特に、洋画は字幕を読むのが面倒だとか言う人もいるそうだが…。だからといって、日本映画の方が展望があるかというと、そう安心もしていられない。 ケータイやら何やらに使うお金と時間に忙しく、映画だったらDVDやテレビで見ればいいじゃんという人も多いようだ。 では、見る側ではなく、若い映像の作り手たちはどうなのだろうか? 「SRサイタマノラッパー2 女子ラッパー☆傷だらけのライム」の入江悠、「さんかく」の吉田恵輔、「川の底からこんにちは」の石井裕也の三人は、今年のうえだ城下町映画祭でも、それぞれの作品が上映された今注目の若手監督たちだが、 彼らに共通しているのは、「自主制作映画」が出発点であるということだ。 それぞれに、映画作りを学校で学び、学生の頃から自分たちの手で作品を作って(その資金も自分たちで捻出して)世に出てきた人たちだ。 当然、その描く世界観も面白みも、既存の映画とは色合いの違うものになってくる。作者の年齢に近い、青春の閉塞感をほろ苦いユーモアに包んだ作品が多いようだ。 昔のように、大手の映画会社に入って先輩監督の元で学んで、というシステムがほとんど無くなってしまった現在、彼らのような作家はますます増えていくだろう。 映画が時代を写す鏡だとしたら、歯がゆいことかもしれないが、彼らの成長に映画の未来の光を見いだしていくことも大切なのかもしれない。 2010.11.27 「トイレット」「かもめ食堂」(06年)や「めがね」(07年)などで独特な空気感のある世界を描き出してきた荻上直子監督の新作である。 ある会社の実験室勤めのレイには、ピアノは上手いがパニック障害でひきこもりの兄モーリーと、大学生で小生意気な性格の妹のリサがいる。 その三人兄妹のママが死んだ。 ママの遺したものは、たいして大きくもない家と、猫のセンセー、そして、日本人の祖母の「ばーちゃん」だった。 レイは、あまりそりの合わない兄妹とは別に住んで、ロボット・フィギュアを集めるのを唯一の趣味に、誰とも関わらないようにして生きてきた。 だが、アパートの火事騒ぎがきっかけで、母の遺した家でみんなと暮らさざるを得なくなる。 そして、全く英語が分からないらしい、ばーちゃんと三人の暮らしがはじまった。 朝、長いトイレを済ませて出てくると、なぜか深いため息をつくばーちゃん。そんな彼女を見ながら、このばーちゃん、本当に自分たちの祖母なんだろうかと、疑問を抱いたレイは…。 「かもめ食堂」の時よりも、なおいっそう淡々とした調子で物語は進んでいって、最初は、なかなかお話が動き出さないなあという感じなのだが、ちりばめられたひとつひとつのエピソードが、次第にあたたかな感動と面白さにつながってゆく。 もたいまさこの演ずるばーちゃんの作る餃子がうまそうで、見終わった後思わず食べたくなる映画です。 2010.11.13 「十三人の刺客」(63年)三池崇史監督によるリメイク版が作られたが、こちらは、工藤栄一監督によるオリジナル版。 江戸後期の明石藩藩主松平斉韶は時の将軍の弟である。だが、この藩主、異常な性格ゆえの暴政の限りを尽くしていた。 それを幕府に訴えようと、明石藩江戸家老の間宮が、老中土井大炊頭の門前で、抗議の切腹をするという事態にまでなったのだが、将軍は弟を猫かわいがりしていて、斉韶の暴虐は収まらない。 大炊頭は、ついに意を決して、腹心の目付、島田新左衛門に斉韶の暗殺を命じたのだった。 ストーリー展開といい、集団による闘争シーンといい、先に公開された黒澤明(東宝)の「七人の侍」(54年)や「用心棒」(61年)におおいに触発されたというか、対抗意識を燃やして作られたことは確かだが、それまでの東映のチャンバラ映画とはだいぶ趣が異なった作品になっている。 黒澤映画とはまた違った東映流リアリズムといった出来だが、出てくる俳優たちの風格や美術は、さすが時代劇の東映といった貫録だ。 嵐寛寿郎の殺陣はやはり息を飲むほどうまいし、後の黄門様とは全く違う剣の達人を演じる西村晃が実にいい味だ。また敵役ながら、明石藩士の参謀役を内田良平が貫録たっぷりに演じている。 新作はかなりスケールアップされている感じのリメイク版だが、そちらをご覧になったら、ぜひこのオリジナルの方も鑑賞されることをお薦めする(今年の「うえだ城下町映画祭」でも上映予定)。 2010.10.1 「借りぐらしのアリエッティ」人間と小人たちの物語というと、私など、どうしても佐藤さとるの「だれも知らない小さな国」や、いぬいとみこの「木かげの家の小人たち」を思い浮かべてしまうのだが、こちらは、イギリスのメアリー・ノートンの「床下の小人たち」をもとに、舞台を日本に移しかえて描かれている。 14才の小人の少女アリエッティの一家は、人間の家の床下に住んで、人間からいろいろなものをちょっとずつ「借りて」暮らしている。 滅びゆく種族の彼らの掟は、「人間に見られてはいけない」ということ。 だが、ある日、アリエッティは、翔という人間の男の子に姿を見られてしまうのだった…。 日本人作家の描く小人たちが、人間とかかわりつつ、いやむしろうまく利用しながら種族を守ろうとしているのに比べて、彼らの人間不信はずいぶんと強いようだ。 その割には、彼らの暮らしは人間の生活にかなり依存していて、その辺の矛盾がむしろ小人たちを追いつめているようにも見える。 アニメーター出身の米林宏昌の初監督作品。 やきもきしつつも黙って彼の仕事を見守る宮崎駿監督の姿をテレビで紹介していたが、その抜擢は成功だったと言っていいのではないだろうか(登場人物の少ない、小粒の作品だったこともあるとは思うが)。 もちろん、米林監督が宮崎駿の作り上げてきた世界に追いつくには、まだまだ長い道のりが残されているだろうが…。 2010.8.28 7月10日、劇作家で小説家のつかこうへいが亡くなった。つかこうへい作品の映画化は何本かあるが、なんといっても一番のヒット作というと「蒲田行進曲」(82年)になるだろう。 こちらは、幕末の池田屋事件の映画撮影をめぐる人間模様を描いた話だったが、もう一本幕末関連の作品というと、新選組の沖田総司と土方歳三、そして坂本龍馬の三人をめぐる物語、「幕末純情伝」(91年)がある。 幕府の募集に応じて、一旗揚げようと、京都に向かう近藤勇一行。 そのなかには、土方や沖田の姿もあった。 新選組に入り、討幕派の不穏分子を切りまくる近藤や沖田たち。 だが、その総司にはひとつの秘密があった。実は、沖田総司は「女」だったのだ。 その総司を女と見抜いて言い寄る龍馬と、お互い好きなくせに素直になれない総司と土方の三角関係。 討幕が進むほど時代の流れから放り出されてゆく龍馬や新選組…お話は、後半に行くほど、つかこうへいワールドにはまって、ハチャメチャになっていく。 映画の出来自体は、かなりまとまりの悪いところもあって、もうひとつという感じなのだが、殺陣をこなす牧瀬理穂がなかなかきりっとしていて、可愛いからいいか…(あくまで個人的感想)。 舞台の「幕末純情伝」の総司もさまざまな女優が演じてきたが、つかこうへいの薫陶のもと、たくさんの役者が育ってきている。やはり惜しい人を早く亡くした。 2010.8.7 「告白」 原作は、同名の09年度本屋大賞受賞作。 物語は、「私の娘は、このクラスの生徒に殺されたのです」という中学の女性教師のショッキングな告白からはじまる。 それに続く、事件関係者たちの告白。 単純な事件に見えた出来事が、語り手たちの告白によってさまざまな綾模様を描き出していく。 一種、芥川龍之介の「薮の中」にも似た構造の複雑なドラマを組み上げた作者、湊かなえのストーリーテラーとしての腕は確かに冴えている。 だが、この物語には、救いは最後まで訪れない。 その救いのない話を、やはりあまり救いのなかった「嫌われ松子の一生」を、一種のエンタテインメントに昇華させてみせた中島哲也監督がどう映画化しているのか…。 物語の筋立ては、ほぼ原作に忠実と言っていいだろう(原作の欠点ともいうべきエピソードなどはうまく語り変えているが)。ラストは原作にはなかったシーンがあって、むしろ原作以上に救いがなくなっているかもしれない。 映像マジックともいうべき中島監督の、あざといくらいの手腕は相変わらず見事なものだが、筋立てだけ抜き出せば、松たか子や生徒役の俳優陣の壮絶なくらいの演技がなければ、かなり辛いだけのものになっていたかもしれない。 映画も、原作の小説もある意味傑作であるとは思う。 だが、よく出来た面白い作品のその後味が、いつも心地よいという保証はどこにもない。 2010.7.24 20日は父の日。というわけで2010年の世界を舞台として作られた「ゼブラーマン」(04年)のお話。今や、Vシネマの帝王ともいわれる哀川翔の百本目の作品として撮られた映画である。(続編の「ゼブラーマン—ゼブラシティーの逆襲—」が公開中だが、だいぶ感じが変わってしまったようだ) 横浜市八千代区に住む小学校教師の市川新一は、不人気のために七話で打ち切られてしまった「ゼブラーマン」というテレビのマイナーなヒーロー物のファンだった。 いや、単にファンというにはとどまらず、自分でゼブラーマンのコスチュームを作り、夜な夜なそれを着ては町をうろついたりしているのだ。 では、マッチョでかっこいい男かというと、妻には不倫され、娘は援助交際、息子はいじめにあっているという、何とも情けない現実を生きているダメ教師なのだった。 そんなある日、新一の前に転校生の浅野とその母親可奈が現れた。可奈は、新一にとっては理想の女性で、彼はひそかに想いを寄せるのだ。 そして、そのころ、八千代区に宇宙人が侵入して世界征服を企んでいるという情報を入手した防衛庁は…。 なんとも情けないお父さんが、ひょんなことから宇宙人と闘う羽目になり、そのためにひとり黙々と特訓をおこなう姿は、みじめではあるが、雄々しくもかっこいいのだ。 いつも家の中でごろごろしているだけに見えるきみのお父さんも、今どこかで何かと闘っているのかもしれないよ。 2010.6.20 「ファンボーイズ」という映画がある。先ごろ東京で短期間のレイトショーが行われただけなので、残念ながら劇場で観ることはできなかったが、DVDが出ている。 オハイオに住むエリックは、かつては熱心な「スター・ウォーズ」ファンだったが、今は父親の会社で仕事に打ち込もうとしていた。 そこへ、昔のファン仲間がやってきて、エリックの幼なじみでもあるライナスが、末期ガンで余命いくばくもないと告げる。15年ぶりに製作された「スター・ウォーズ エピソード1」が公開されるのは半年先。とてもそれには間に合わない。 ライナスのために、ジョージ・ルーカスの本拠地「スカイウォーカーランチ」に忍び込んで、フィルムを盗みだそうと企てる彼らだったが…。 ガンで死にそうな友人のための…というと、湿っぽいお話になりそうなものだが、スター・ウォーズファンに対抗するスター・トレックファンとのいざこざや、ウィリアム・シャトナーやキャリー・フィッシャーのカメオ出演を折り込みながら、目的地のカリフォルニアへと、お馬鹿でお下劣な展開のまま物語は突っ走ってゆく。 だが、彼らの行動のばかばかしさに笑いながら、やがてあたたかなものが心にわいてくる映画だ。 これは、たんに「スター・ウォーズ」オタクやSF映画ファンだけのためのコメディーにとどまらず、映画そのものに対する愛にあふれた、青春ロードムービーの佳作である。 2010.6.5 「第9地区」宇宙人というと、おとなしめの「E.T.」タイプか、「凶暴きわまりない「エイリアン」タイプ、もしくは地球人そっくりといったところが相場だが、ある日、南アフリカ共和国のヨハネスブルグ上空に現れた巨大な宇宙船に乗っていたやつらは、どことなく「エビ」に似ていた。 彼らは、どうやら漂流者らしいのだが、理由はよく分からぬまま、とりあえず「第9地区」と呼ばれる難民収容地区に閉じこめられて20年が経過する。 その間に、知性はあるが野蛮で不潔な彼らと、まわりの住民の間では、次第に対立が激しくなりつつあった。 そんな事態を回避するべく、彼らを新しい収容施設に移住させるために、今やスラムと化した第9地区に交渉に向かったヴィカスだったのだが…。 舞台がヨハネスブルグであることからも分かるように、アパルトヘイトや難民問題を連想させる部分はもちろんあるのだが、「自分がその立場に立たされないと、どうしても理解ができないことがある」ということをするどく突きつけてくる作品だ。 監督は、これが長編デビューのニール・ブロムカンプ。登場人物も無名の俳優ばかりで、製作費も最近の大作からみればごく少ないのだが、ドキュメンタリータッチで、臨場感たっぷりに仕上がっている。 人間もエイリアンも遠慮なく殺されるし、気の弱いひとには少しきついところもあるが、見てけっして損はない一本だ。 2010.5.22 シャーロック・ホームズの熱心なファンを「シャーロキアン」と呼ぶのだが…。「世界は、初めてのシャーロック・ホームズに出会う」というのが売り文句の「シャーロック・ホームズ」が公開された。 頭脳明晰なれどマッチョで自堕落と、確かに、今までのホームズのイメージとはかなり違う人物像を創りあげている。 「19世紀末のロンドン。若い女性が次々と犠牲となる不気味な事件が起きる。その犯人は…」 今まで、いくつもホームズを主人公とした映画は作られているが、何故か原作を映画化した作品はほとんどなく、パロディーだったり、まったく新しく創られたストーリーだったりする。 今回の映画もオリジナルのストーリーだ。 もちろん、原作でも、ホームズは現場主義の捜査を行い、積極的に動く人物で、けっして安楽椅子探偵のタイプではないのだが、インディー・ジョーンズ張りのアクション全開という男ではない。(ホームズのイメージにかなり近いと思われるのは、NHKで放送されていた、故ジェレミー・ブレット主演のホームズシリーズだろう) そんな原作と比較すると、今回のホームズは、どちらかというと、味わいとしては「怪人二十面相」や「ルパン三世」といった感じに近いものになっている。 単純に、ハリウッドお得意のハラハラドキドキのサスペンスとして見る分にはなかなか面白くできているが、はたして、シャーロキアンたちのお気に召すかは…? 2010.4.17 「不思議の国のアリス」という物語がある。お読みになった方も多いことだろうし、今まで何度もいろいろな形で映像化もされている。今年になって、ディズニーがティム・バートン監督による「アリス・イン・ワンダーランド」を作っている。 日本での公開はこれからだが、不思議の国での冒険から10年経ったアリスの物語のようだ。 ディズニーは51年にもアニメの「ふしぎの国のアリス」を作っている。 原作そのままというわけではないが、そのナンセンスぶりは、最近のちょっとお説教臭かったりするディズニーアニメから見ると、けっこう異質な世界で、独特な面白さがある。 ところで「非実在青少年」という何とも奇妙な言葉をご存知だろうか? ごく大ざっぱに言ってしまうと、アニメやマンガに登場する18歳以下に見えるキャラクターの事であり、東京都は、そのキャラクターが性的なものに絡む表現を条例を作って取り締まろうとしている。(条例案では「図書類及び映画等」と規定しているから、解釈次第でアニメなどだけに収まることではないだろう) もちろん児童ポルノなどから子供を守るのは大事なのだが、それを表現の自由の規制とも取られかねない方向に強引に持っていってしまうのは、あまりにも乱暴すぎるだろう(とりあえず継続審査になったようだが…)。 少女アリスは9才。もちろん非実在青少年だ。 彼女にちょっとでもいやらしいことをすれば、誰かが黙っていないぞ…。 2010.4.3 「Dr.パルナサスの鏡」現代のロンドンの街の片隅に、馬車を舞台に仕立てた、インチキ臭い見せ物一座がやって来る。 パルナサス博士が見せる、鏡のなかのイリュージョンが出し物なのだが、実は、博士はもともとはある国の高僧だった人物で、千歳を超えた不死の人だった。 その博士の娘ヴァレンティナが16歳を迎えるとき、博士に不死を与えた悪魔がやって来て、約束通り娘を渡せと迫る。 そこに、ヴァレンティナに命を救われたトニーという男がからんで来たことから…。 お話も波乱万丈だが、映画の制作そのものも平穏無事には行かなかった。 撮影途中で、トニー役のヒース・レジャーが亡くなってしまったのだ。 だが、ヒースの役をジョニー・デップ、ジュード・ロウ、コリン・ファレルという彼の友人たちが引き継いで、絢爛たる幻想に満ちた世界を完成させたのだった。 監督のテリー・ギリアムはアニメーターとして出発した。生まれはアメリカだが、イギリスのコメディ・ユニット「モンティ・パイソン」唯一のアメリカ人でもあった。 そのためか、彼の映画のテイストは、イギリス流のブラックユーモアに彩られ、多くのハリウッド映画とは一線を画している。 映像的には面白い映画なのだが、イギリス流のユーモアというのは、もうひとつ日本人の感性とは合わないというか分かりにくいところがあって、これも見る人によってかなり意見の分かれる作品ではあると思う。 2010.2.27 キネマ旬報のベストテンが発表された。邦画の第1位は、昨年ここでもご紹介した「ディア・ドクター」。 洋画の第1位は「グラン・トリノ」だった。 ウォルトは、かつて自分が自動車工だったころ組立に携わったフォードのグラン・トリノを磨き上げ、ビールを飲みながらそれを眺めるだけが楽しみのような、頑固者の老人だった。 最愛の妻を亡くしたばかりの彼だったが、息子たちとも気まずいすれ違いの日々で、ひとり暮らしを続けていた。 そんなとき、隣りにアジア系のモン族の一家が越してくる。 彼らを見て「ねずみどもが…」とつぶやくようなウォルトだったが、朝鮮戦争で、同じアジアの若者たちを殺したことを心の重荷として引きずり続けてもいるのだった。 やがてその一家のタオという青年と姉のスーが関わりを持つようになったことから…。 身内や同族だからといって必ずしも同じ気持を分かち合えるとは限らないし、異文化の人間がいつも遠いだけの存在ではない…そんな思いが心にしみてくる映画だ。 監督主演は、この作品を最後に役者業からは引退を表明したクリント・イーストウッドである。 マカロニウエスタンやダーティハリーで拳銃を撃ちまくっていた彼が、ここまでの名監督になろうとは、当時は想像もし なかったことだが…。 「矜持をもって生きる」 とはどういうことか、イーストウッドは、いつもそれを自分の作品で伝えようとしているようだ。 2010.1.30 昨年末には、ジェームズ・キャメロン監督の久びさの大作「アバター」が公開されたりして、しばらく前からはじまったハリウッドの3D映画の波は、今年に入って更に本格化していくようだ。3D、いわゆる「立体映画」は、50年代に赤・青2色のメガネをかけて見るタイプのものが出てきたが、映像的にもお粗末で、その上内容も伴わなかったからじきに飽きられてしまった。 その後も、何回かのブームらしきものはあったが、いずれも短期間で終わっている。 なぜそれでも立体映画が作られて来たのかというと、それは観客の要望というより、テレビに流れたお客を呼び戻そうというその時々の映画会社の意図があったからだ。 立体映画の仕組みは、ごく単純に言ってしまえば「右と左の目から、少しずらした映像を取入れて、頭の中で立体的な絵に組み立て直している」ということになる。 そのためには、専用のメガネが必要になる。今は、さすがに赤・青レンズのメガネより数段進んだものが用いられて、映像的にも格段に良くなっているが、基本的な原理は変わっていない。 日本では、まだまだ環境が整っていないから、3D映画制作という面に関しては、かなり出遅れた状況ではある。 ただ、CG映像が、単なるアトラクションから、ようやく「CGも道具のひとつ」の時代になってきた今だからこそ、むやみに目新しさに飛びつかず、ここはまず作品の質を充実させて欲しいものではある。 2010.1.1 今年の邦画界最大の話題というと、やはり「おくりびと」のアカデミー外国語映画賞と「つみきのいえ」の短編アニメ映画賞の同時受賞だろう。その後もさまざまな作品が公開されたわけだが、少なくとも、上田市という地域に限定してみれば今年は「サマー・ウォーズ」の年だったと言ってしまってもいいだろう。 今までも、さまざまな作品のロケ地となった上田だが、上田がそのまま舞台となって、ここまでヒットしたのははじめてのことだろう。 正直言って、「田舎の一族が団結して世界の危機に挑む」という設定が、はたして若い人たちに受けるのだろうかと心配だったのだが、幕を開けてみると、百万人以上の観客動員という大ヒットとなった。 そして、上田市にとっての影響は、単に「上田」という名前が知られたというだけではない。 アニメファンによる、 アニメのロケ地巡り…いわゆる「聖地巡礼」の目的地のひとつともなったのだ。 上田城跡公園などで、普段はあまり見かけないタイプの若い人たちが、ロケ地マップを手に歩いているのを目にした方も多いのではないだろうか。 「ロケ地上田」が、観光にも結びつく可能性を示してくれた出来事だった。 年末に来ても、「ゼロの焦点」等、上田ロケの作品が次々と公開され、映画館では特集も組まれたりしているが、これからは、単にロケ地となったというだけでなく、映画を離れてもいかに魅力的な土地となれるかが課題となるのだろうな。 2009.12.26 今年も、11月7日・8日と、秋の恒例行事「うえだ城下町映画祭」が開催された。私もスタッフのひとりとして参加している映画祭も13回目。今回は「絆」という、比較的幅の広いテーマで開催された。 初日はラインナップが少し地味な並びだったためか、お客さんの入りはもうひとつという感じだった。 毎年、初日には自主制作映画コンテストの表彰式がある。 ゆうばり国際ファンタスティック映画祭でグランプリを受賞し、海外でも上映され高い評価を得ている「SR サイタマノラッパー」が上映された。そのゲストトークの入江悠監督は、第2回のコンテスト大賞受賞者。 うえだ城下町映画祭にゆかりのある人たちが活躍しはじめているのは、うれしいかぎり。 2日目は、初日と打って変わって、朝からぞくぞくとお客さんが詰めかけて来た。 原因は、やはりこの日一番の目玉ともいうべき「サマーウォーズ」の人気。おかげで、上映時には、映画祭はじまって以来の満席となり、なかには座りきれない方もいて、予想以上の入りとはいえ申し訳ないことだった。 関連のロケ地巡りツアーも朝のうちに定員に達してしまい、神奈川や東京からも参加者がある人気ぶり。 ただ、初日のように、一見地味だったり、昔の作品でも、面白い映画はたくさんある。 そちらも、同じように大勢の方が座席を埋めてくれるようになれば、うれしいのだけれど。 2009.11.27 限界集落という言葉がある。65才以上の高齢者が人口の過半数を占める村や町のことである。「ディア・ドクター」は、そんな、高齢者が人口の半分を占めるという村で起こった、ちょっとした、だが、村人たちにとっては深刻なお話を描いた映画である。 ある日、その山あいの小さな村からひとりの医者が失踪した。田んぼのわきの道端に白衣を残したまま、彼はこつ然と姿を消してしまったのだ。 彼の名は、伊野治。それまで無医村になっていたこの土地に、村長が引っ張ってきた男だった。 主のいなくなった診療所に残されたのは、医大を出たばかりの研修医の相馬と、看護師の大竹。 県警から派遣されてきた刑事たちは、どうせ田舎がいやになって逃げ出したのだろうくらいの気持ちで捜索をはじめたのだが、調べれば調べるほど、伊野という男の正体は曖昧模糊としてゆくのだった。 「ゆれる」(06年)で高い評価を得た西川美和監督の脚本と演出は相変わらず見事である。 だが、それ以上にこの映画を味わいのあるものにしているのは、やはり伊野を演じる笑福亭鶴瓶の存在だろう。 ほかの、どんなに達者な役者が伊野を演じたとしても、伊野という存在のつかみ所のなさを描き出せたかは疑問だ。 バラエティー番組で笑っている鶴瓶とは、また違う彼がここにはいる。 医療とは何か、生きて死ぬとはどういうことか、その難しい問題を、重苦しくはなく、だが深く問いかけてくる映画である。 2009.10.17 「劒岳 点の記」何故、山に登るのかと聞かれて「そこに山があるから」と答えたのは、イギリスの登山家マロリーだが(実は言っていないという説もあるが)、「劒岳」は、「そこに登るべき山があるから」を答えとして描いた作品だ。 明治39年、陸軍は国防のための日本地図完成を急いでいた。最後の空白地点、劒岳一帯の測量のために、測量手の柴崎芳太郎は、前人未到の劒岳登頂を命じられる。 そのころ、創設まもない日本山岳会も劒岳の初登頂を目指しており、軍の名誉のために、その競争にも勝たねばならぬという命令も同時に受けたのだった。 案内人の宇治長次郎らとともに劒岳に向かう柴崎たちの前に待っていたのは…。 ハリウッドばりのハラハラドキドキ映画に仕立てようと思えばいくらでもできる話だが、物語はドキュメンタリーを追っているかのように、淡々と進んでゆく。 これが初監督のベテランカメラマン木村大作が、CGを使わず、本物でしか造りえない光景をしっかりとフィルムに焼き付けている。 転落や滑落シーンなど、どうやって撮ったのかと思う迫力だ。 山頂への登山ルートが説明不足だったり、山岳会のリーダー小島烏水などの人物の描き方がいささかステレオタイプで、ドラマとしては物足りない部分もあるのだが、眼前に広がる山々の威容や、そこを黙々と登り続ける人間たちの姿に、そんなちっぽけなことも吹き飛んでしまう作品である。 2009.7.25
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